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 母は綺麗な人だった。
 白銀の髪に、紅い瞳。この人が天然の夜兎ならば、白兎の名を侮蔑的な意味ではなく、美の代名詞として名乗ることが出来ただろうにと幾度も夢想した。
 母は他の凡庸とした白兎と異なり、賢く、そして誇り高かった。屈辱的な境遇を乗り越え、自ら生きる場所を決めた強さに憧れた。
 彼女のようになりたかった。己だけでなく白兎という種は、そうあるべきなのだと思った。
 母は種の女王として相応しかった。生殖をコントロールする女性物質、他を服従させる言葉、それらを以ってすれば白兎は自然の生き物として、生まれ変わる事が出来るはずだった。白兎などと言う特殊な呼び名ではなく、強く、誇り高く、気高い――――夜兎として生きる事が出来ると信じていた。
 だが、そんな頃に、あの男が現れた……
 母は気高い女王から、凡庸な女に成り下がった。男の暴力に耐え、欲に組み敷かれ、理不尽に応える、ただの白兎になってしまった。
 なんだ……
 落胆した。母にはもうその資格はない。女王として返り咲くには、あまりに多くのものを失ってしまった。
 落胆したが、同時に希望を見つけた。母が駄目ならば、代わりの女王を用意すればいい。
 種を導き、進化させ、何者にも負けない強さを生み出す新しい女王を。





闇夜に兎05





「香主、起きて下さい」
 揺さぶられて目を開くと、サングラスが顔の四分の一を占めた中年男が自分の顔を覗き込んでいた。
「んあ?」
「んあ、じゃありません。こんな所で暢気に寝て。さっさとズラかりますよ」
 視線を男の背後に向けると、空を覆い隠すようにネオンが輝いている。そして彼方には街全体を見渡すほどの空中楼閣が、まるで監視塔のようにそびえていた。
 ああ、あそこから落ちたんだっけ、とぼんやりと思い出す。街のどこかに落ちてそのまま気を失っていたらしい。
「いやいやいや、気絶してたんだってば、コレ」
「涎垂れてますよ」
「ありゃ?」
 は唇の端をだらしなく伝っていた涎を、無造作に袖で拭いあげた。
「夜王に喧嘩売ったと思ったら、春雨の師団長なんかとやり合って。それでこのザマですか」
「酷いなぁ。春雨の雷槍相手に善戦したと思わない? 片手はどっかに落として来ちゃったけど」
「そりゃ、豪快な落し物ですねェ」
 薄笑いを浮かべながら、ウォンはネオンの空を見上げた。
 地上何メートルもの高さから落ちたくせに、ピンピンしているとは恐れ入る。やはりこの男も化物の一人だ、とウォンは認識を新たにする。
「で、どうでした? お義兄様への挨拶は」
「ん〜……思ってたより、馬鹿じゃなかった、かな? 俺が白兎だってなんとなく分かってたみたいだし。それに強かった。ありゃホンモノだ」
「それは重畳ですな。小姐がガキでも孕めば、その強さはあんたら白兎のものだ」
「ふふっ、だね」
 はゆるゆると起き上がると、片手を失ったチーパオの袖を振り回しつつ、上機嫌で色町の裏路地を歩いていく。嬉しいねェ、と男にしては華奢な背中が言った。
「一代、一代、俺たちは着実に強くなっていく。進化を止めた夜兎なんかより、確実に弱点を克服し、最強に近づいていく」
「そして、やがて夜兎族は人工兎に侵食される、ですか」
 は振り返って、猫のように細めた目に笑みを湛えた。
「侵食だなんて人聞きの悪い。進化だよ、夜兎全体の。いつまでも太陽を怖がる宇宙最強なんて、馬鹿馬鹿しいじゃないか」
「ああ……、そうでしたね。香主の持論じゃ、白兎こそもっとも夜兎の自然に近い形って話だ」
「事実だよ。天然兎と白兎の違いは、実際は雌の性フェロモンのバランスをちょっと弄くったくらいにしか変わらない。もちろん、飼いやすいように、声帯を発達させなかったり、闘争欲を削いだり色々してるけどね。そんなのは進化とは呼ばない、ただのコーディングだよ」
「女王兎もですか」
 ウォンの問いにはにぃっと唇を歪めて、当然さ、と言葉を返した。
「女王なんて言葉は、生物学者だか何だかが後からつけた名前にすぎないよ。アレは、もともと夜兎の雌に備わっていたシステムさ。進化の途中でなくしてしまったそれを、先祖がえりさせただけなんだ。今だってその名残は発情期の雌に見受けられる」
 ウォンは沈黙したまま、いつだったが講釈を垂れた夜兎の生態を思い出していた。
 発情期に雌が振り撒く蠱惑的なフェロモンは、雄を意きりだたせ、闘争欲を掻き立てる。個々の雌は複数の雄を呼び寄せ、己を頂点とする集団を生み出す。そして最も強い雄の子を生む。
 なるほど夜兎の雌と言うのは、生まれながらに誰しも女王の素質を持ち合わせているというわけだ。
「雌は他の雌のコミュニティを害する事はない。互いの生殖範囲をテリトリーとして制限しているからだね。これを更に強めると、生殖そのものを制御する女王物質となる。まあ、そこまで高めるには特別な素質が必要になるんだけれど」
 そして、そこまで高めた個体こそ女王としての資格を持ち、目の前の男の持つ血筋というわけだ。
 残念でしたね、とウォンは笑って見せる。
「香主が雌だったら、きっと立派な女王様になっていたでしょうに」
 胸中で、立派で外道なと言い換え、ウォンは更に笑みを深めた。
「いやいやいや。俺は誰が女王だろうと構わないんだよ。そういう存在が生まれれば、それは種にとって幸福だ。俺はただ種族の進化と幸福を願っているだけだよ」
 だからあなたは、外道に成り下がれるんですかねェ――――ウォンは胸の奥での綺麗な顔に向かって語りかける。
「白兎は夜兎から生まれた存在だ。早く溶け合って、一つに戻るのが俺の望み、種の幸福。そうすれば俺たちはもっと強くなれる」
 この男には個としての幸せは含まれない。
 だから、血を分けた兄妹を進化という名の供物に出来るし、母親と同じ顔のクローン兎を躊躇いなく売りさばける。きっと自分の命だって大して大切ではないのだ。この野望を継ぐ者が現れれば、自分はさっさと鉄砲玉にでもなってしまうのだろう。
「白兎は夜兎のために用意された花嫁だよ。早くあるべき場所に還してあげなきゃ」
 そして同化し、混ざり合って、溶け合う――――
 それだけが己の望みだとでも言うように、は愉快そうに声を上げて笑った。
「楽しみだねェ。早くチャンが凶悪なガキを生んでくれるといいなァ」





「ん」
「いや、ん、ってアンタ」
 差し出された生ものを前に、阿伏兎は伸ばしかけた手を引っ込めた。
 神威が笑顔で渡して来たそれは、見間違いでなければ二足歩行生物の腕だ。しかもだいぶ乱暴に切ってきたのか、切断面はソーセージを無理やり千切ったように凸凹だし、出血が激しかったのか、肘の辺りまで赤黒い血で染まっている。
「証拠にちゃんと持ち帰って来いって阿伏兎いっただろ?」
「いや、言ったぜ? 言ったけどなァ……」
 それは人質や交渉材料としての意味だ。生死が判断できる首ならともかく――――いや、やはり生で持ってこられても困るが――――腕一本でどう判断しろと言うのか。
「この肌……夜兎か? 夜兎が白兎を売るなんざ、腐ってやがるな」
「それどころじゃないよ。ソイツも白兎だった。しかも地球人とのハーフだ」
「あん?」
 どこかで聞いた話だと小首をかしげ、阿伏兎は悪い冗談を聞いたような笑みを顔に浮かべる。だが、神威のひどく上機嫌な殺気に満ち満ちた顔を眺め、己の悪い予感が的中したと察した。
「オイオイ、そりゃ笑えねェなァ……」
「そいつが本当にの兄貴なのか、調べといて」
「いや、まぁ、そりゃあ……」
 阿伏兎はがしがしと髪を掻き毟りながら、デスクの上に無造作におかれた血塗れの白い腕を見やる。男にしては繊細に見える指先に、を重ねてぞっとした。
「……に教えなくていいのか?」
 聞かれて、神威は必要ないよ、と即答した。
はあんな奴のこと、カケラも覚えちゃいない。一度捨てた人間の事を、わざわざ思い出させる必要なんてないだろ?」
「しかしなぁ……」
 逡巡した阿伏兎に、神威は殺意の塊をぶつけるようにして鋭い視線を送った。
 喋ったら、殺しちゃうぞ? と言外に告げる。
「はいはい、分かりましたよ。団長様のお気に召すままに」
 呆れ顔を作った阿伏兎に、神威は満足そうな顔をする。だってさぁ、と唇をひしゃげさせ、凶悪な笑みを浮かべると、
の記憶に残る男なんて、俺一人で十分じゃない?」
 相変わらずの規格外の独占欲に、阿伏兎は閉口した。
 自分よりも記憶の奥に居座るというだけで、この男は不愉快なのだ。加えて、神威が常日頃忌々しく感じている、の背中の刀傷もその男が作ったものだというのだから、神威の苛立ちは極限だろう。
 現在や未来だけでなく、過去も支配したい。己が支配できない過去など、記憶から、存在から、消えてしまえばいいと思う。
 本気でそう、何の疑いもなく思っているのだろうと察し、阿伏兎は深く深くため息をついた。まるで、世界のあらゆる都合は、すべて自分のために捻じ曲がるべきなのだとでも言うような。
 結局、はこの男の途方もない独占欲に支配されて、そして自分はそんなバカップル達に振り回されるのだろう。
「やれやれ、これが童話なら間違いなくあんたは悪人だぜ?」
 そんな事を呟いて、悪の手先はそれでも彼に加担してしまうのだった。




end


ヒロイン兄との接触が済んだところで、
ひとまず「闇夜に兎」完結です。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!
本編は完結ですが、こぼれ話など用意していますので
引き続きお楽しみいただけると幸いです。