闇夜に兎02
「夜来」と呼ばれる中華系マフィアが台頭し始めたのは、ここ十数年ほどの事である。もともとは密航者の仲介を生業とする九龍の小さな町ヤクザが、ここまでのし上がった背景には一人の青年の存在があった。
香主と人に呼ばれている青年の実名は、顔ほどには知られていない。という雅やかな名があるのだが、それ以上に顔が艶やかなのでそちらの方が有名になってしまったのだ。
十年ほど前、まだ小僧でしかなかったがふらりと現れ「夜来」は変わった。
ケチな仲介業に終止符を打ち、およそ人の思いつく悪徳の限りを尽くして、夜来は急激に成長した。その実行犯のほとんどはが担っており、のやる事に失敗はなかった。
綺麗な顔と、顔に似合わぬ凡庸さは、およぞ悪行などには無縁に見えたが、彼は誰よりも躊躇なく善悪の境界を飛び越えた。奪うことにも、殺すことにも、犯すことにも躊躇いがない。当然、善悪の判断がつかないというわけでもない。悪を悪と理解した上で、容易く漆黒の闇へ飛び込む。
その一種の非凡さがカリスマとなり、彼は若くして組織の幹部へと上り詰めたのだった。
そして今――――、夜来の使者として、夜王・鳳仙の前に対峙している。
「貴殿の噂はかねがね聞いている。その若さで九龍の頂点に昇るとはさすがよ」
「いやいやいや、俺なんてまだひよっこです。世の中の仕組みなんて、なァんにも見えちゃいません」
「ふっ。世の中は見えずとも、女を飼い殺す世界は熟知しているか」
「ま、そりゃ、こっちも商売ですから。女の扱いはうまくなきゃ」
はにこにこと柔らかな笑みを、隣りに侍る遊女達に向けた。
の美麗な顔に女たちは妖艶な笑みを浮かべ、寄り添うようにしなだれかかる。
だが、はでもね、と言葉を続けると、女の首筋にするりと指先を這わせた。から触れられた事に遊女は嬉しそうに笑みを浮かべたが、やがてその顔は苦悶の表情へと変わっていった。
「ホントは女、嫌いなんですよ」
ぎりぎり、と失神も即死も許さぬ、意識を保てるぎりぎりの強さでは首に這わせた指に力を込めていく。女の苦悶の表情に周りに侍っていた遊女達は悲鳴を上げて逃げ惑ったが、鳳仙は唇に笑みをたたえたままの凶行を眺めていた。
「どうにもこのか弱い生き物が苦手で……見ていると――――つい、虐めたくなっちゃうんですよ」
ぎゃあっと悲鳴を上げて、女は白目を剥いて卒倒した。泡を吹いた身体がびくびくと痙攣している。殺さないのは慈悲などではなく、逆に悪質である。この女は一生心の傷を負い続けるのだろうと想像し、鳳仙は唇の笑みを深めた。
「なるほど、聞きしに勝る残忍さよ。しかし、わしから見ればぬしのそれは、嫌悪の仕草ではないように見えるが?」
嫌いならば触れねばいいだろうに、わざわざ唆して首を絞めるなど――――まるで蝶の羽をもぐ、子供のようだ。
「ははあ、旦那には愛情の裏返しに見えますか。んー、どうなんでしょうね。自分でもよく分からないや」
あはは、と笑いながら、はもはや女に欠片も興味はないのか、一瞥すらせずに上機嫌で酒を仰ぐのだった。
「時にぬしら夜来は、変わった人形を売るのだそうだな」
「ええ。本当は旦那にもご覧に入れたかったんですが、先日の天涯号の事件でなぜかみんな死んじゃいましてね。こうして後から江戸に到着した俺が、商品も持たずに一人で来るはめになったというわけです」
鳳仙はへらへらと笑みを浮かべるの顔を、盃に唇をあてつつ観察した。
先の天涯号の件に春雨が絡んでいるのは知っている。そして、どうやら表向き吉原と夜来を結ぶ役割であった春雨が、手を翻したらしい事も知っている。
夜来の関係者が悉く殺し尽くされたことからも、はそれがどういう事を意味するのか理解しているはずだ。
だと言うのに、のこのこと――――こうして予定通り吉原に現れ、鳳仙と対峙している真意とは何だろうか。算段どおりならばこの吉原で、夜来の香主である、吉原の楼主・鳳仙、そして仲介となる春雨の三者が集い白兎の市場拡大の取り決めをするはずだった。
だが、天涯号で白兎が全滅し、商品を失った上に春雨に背を取られた夜来にとって、ここは敵中のど真ん中。仮に鳳仙が中立を取るにしても、春雨の使者が訪れるこの地は、にとって死地である事に違いはなかった。
「ああ、それにしても残念だ。旦那にも春雨の方にも、ぜひ白兎の身体を直に味わって欲しかったのに」
鳳仙は、ぴくりと眉根をひそめた。
白兎は愛玩用に品種改良を施された夜兎族である。天然のそれとは違い、だいぶ特殊な性質を持つが、同じ種族である事に違いはなく、それを夜兎である鳳仙に捧げようとは質の悪い皮肉のように思えた。
「……夜兎の女など、飽くほど抱いたわ」
の皮肉を詰まらなそうにふんと笑い飛ばし、鳳仙は酒を仰ぎ飲む。だが、は鳳仙が気分を害したのを、まるで気づかぬ様子で、いやいやいや、と食い下がる。
「白兎はただの夜兎とは別格ですよ。もともと、夜兎族の繁殖計画のために造られた、それ用の女なんです。あなたも夜兎の雄なら、きっと抗えない」
「ほう? わしの聞き知る白兎は、気性が荒く、飼い主にも噛み付く猛獣らしいが?」
弟子が骨抜きにされたと聞く、白兎の娘を脳裏に思い浮かべた。もっともあれは野良兎か、と胸中でつけたす。
は猫のように目を細めると、くくくくと喉の奥で嗤った。
「ええ、そうです。好きでしょう? あなた方はそういうの。従順な雌が好みのようで、実際には噛み付いて来るような凶暴な女がいい。牙を立てられて引っかかれるのがイイなんて、ホント、夜兎の雄っていうのは――――マゾですかねぇ?」
瞬間、鳳仙の白眉の下の双眸がくわっと見開かれた。振り上げた巨大な手がそのままを跳ね飛ばすかに見えたが、突如開け放たれた襖の向こうより薄紅色の陰が飛び込み、臙脂色の番傘の切っ先がの即頭部を殴打した。
まるで弾かれたゴルフボールのように、は背後の襖を何重にも破って吹き飛んだ。
爆発にも似た衝撃が生んだ煙の中に、鳳仙は薄紅色の陰を見つけると振り上げた手の平をゆっくりと下ろした。
「遅いぞ。わしに詰まらん者の相手などさせるな」
そう告げると、陰はゆっくりと振り返り、にこにこと――――あの殺人的な笑みを浮かべて、鳳仙を見た。
「へへ。記憶喪失の迷子をさがしてたら、遅くなっちゃいました」
end
相変わらずの捏造満載。
江戸があるなら九龍もあるだろー、というわけで、
勝手に中華系マフィア「夜来」を登場させてしまいました。
春雨より規模は小さいですが、色々悪い事してるイメージです。