闇夜に兎
数多くの色町を見てきたが、ネオンの色が綺麗だと感じたのはここが始めてだった。空を締め出し年中暗いこの街だからこそ、こんな澄んだ色が醸し出せるのかとウォンは思った。
小汚い事に変わりはない。
夜王・鳳仙が築いたという江戸一番の地下遊郭だが、どんなに着飾ろうと中身は同じだ。金で女が買われて刺される街。薄汚い金で回る仕組みの上では、どんな桃源郷のような遊里も皆同じ薄汚さがある。
だが、ネオンだけは澄んで見えた。元から光など知らぬとばかりに、偽りの灯りを灯すそれはいっそ潔い美しさを持っていた。
この街には初めから光がない。元よりそれを拒んで造られている。だからきっと、そんな嘘だらけの幻想的な色を恥じる事無く灯せるのだ。
――――さて。
「香主(シャンジュ)、起きてください。香主」
楼閣の窓辺に腰掛けたまま、転寝をしている青年の肩をウォンは乱暴に揺さぶった。がくんがくんと首が揺れ、がつっと後頭部を壁にぶつけてようやく青年は目を開く。
「んあ?」
「そろそろ時間です。準備を」
濃紺のチーパオを差し出すと、青年の瞳は虚ろにそれを眺めてから、ウォンの顔とそれを行ったり来たりした。
相変わらず寝起きが悪い。これではまともに応対できるようになるのは、十分は後かとウォンは予測した。
だらしなく垂れた涎を袖の端でぬぐって、青年は緩慢な動作でウォンの手渡したチーパオに着替え始める。途中何度もボタンを掛け間違え、五分後にようやく青年は着替えを終えた。
光沢のある濃紺のチーパオは青年の黒髪によく映える。美麗な顔立ちも手伝って、よれよれの衣服を脱ぎ捨てた彼は、一組織の香主として十分な風貌に見えた。もっともあのぴょんぴょんと跳ねた寝癖は、夜王に会う前にどうにかせねばなるまい。
「いいですか、香主。この後の会席はただの挨拶です。あまり突っ込んだ事を言わないよう、夜王のご機嫌を損なわぬよう気をつけて下さい」
「んー……」
「本題は客人が着いてからです。夜王はどのみち、この件は傍観するつもりです」
「うー……」
「老いたとはいえ、相手は夜兎族です。くれぐれも……つまらん興味を出さないでくださいよ」
「あー……、わかった、わかった」
本当に分かっているのかと訝りつつ、ウォンは携帯した整髪料を青年の手に押し付ける。
やはりまだ半分夢の中にいるような、緩慢な動きで青年は髪を撫で付けるのだが、驚く事に髪を後ろに流すだけで顔つきが変わる。実際は痛覚も忘れたくらいに鈍いのだが、まるで剃刀のような鋭い印象を与えるのだから不思議だ。
「俺は隣室に控えます。が、ただの人間の俺には夜兎族の相手なんて無理ですから、どうか揉め事はご勘弁くださいよ」
あいあいと青年は頷いて、首を鳴らした。
ようやく少しだけ目覚めて来たのか、しわくちゃの服と一緒に放りなげた短刀を手に取り、ぽりぽりと頭をかいた。
「さすがに夜王に会うのに、武器はまずいかねぇ?」
「さて。相手は素手でこっちの首を捻り落とすような御仁ですよ。そんな事は気にしないんじゃないですかね」
「ん、そっか」
青年は納得すると、短刀をチーパオの腰帯に挟んで、未だ眠気の抜けきらないふらふらした足取りで、夜王の元へと向かった。
「しかし、あれだねぇ。春雨ってのはおっかないね。一つの国の地下に、こんな馬鹿でかいもの作っちゃうなんて」
楼閣の渡り廊下を歩きながら、青年が興味深そうに吉原のネオンを見つめている。先ほど窓の先のネオンを見て思った事を思い出しながら、ですねぇとウォンは同意した。
「どうする? 一儲けしたら俺たちも九龍に歓楽街とか作っちゃう?」
「俺たちみたいな新興マフィアにゃ真似できませんて。だいたいあなた、真面目に金儲けする気なんてあったんですか」
「ええ? 組織の営業部長を捕まえてそりゃ酷いな。稼げるんなら、俺は稼ぐよ? もらえる金をわざわざ見逃す理由なんてないし」
「そうですがねぇ」
呟きつつ、背後でウォンが軽くため息をつくのを青年は耳にした。香主の野望を俺は知ってますと、そう言って呆れたような顔を作るウォンに、青年は笑みを送った。
だってさぁ、と唇を歪め、
「ほらね。戦争には金がいるじゃないか」
end
今回は「月夜に兎」の外伝的な物語。
香主というのは、中華系マフィアの幹部のこと(らしい)です。
呼びかけにも使うのかよくわからないけど、
なんとなく響きが気に入ったので使っちゃいます。