境界・前編
神威と彼女の間には明確な境界が出来ている。
建物の影の中に佇む神威と、陽だまりの中に留まる。
は日傘もささず日の光を浴びてもけろりとしている。半分地球人の血を受け継ぐ彼女は陽光に耐性があるのだ。
対して神威はその陽だまりの中へ入っていく事が出来ない。夜兎の本能がそれに近づくなと告げている。
影と光の境界線の前でその足はぴたりと止まってしまった。
「」
いつもの笑顔。だが、声にわずかに苛立ちが含まれていることに、は気付いていた。
「戻っておいで」
陽だまりの中のへと手を差し伸べる。
だが、その指先が影の中から出る事はない。あくまで境界は越えない。越えられないのだ。
「今ならお仕置きはなしだ」
今なら、と言うところにアクセントを置いて、神威は微笑む。裏を返せばこれが最後通牒。今言う事を聞かなければ覚悟はいいか、と暗に告げているのだ。
は一瞬恐怖に負けそうになりながらも、身体中の勇気を奮い起こす。
自分は陽だまりの中にいる。この光の中にいる限り、神威は手出し出来ないはずだ。
「イヤ。私帰らないから」
明瞭な拒絶の言葉。
途端、神威の表情から笑みが消えた。
「俺に逆らうの?」
神威の怒りが空気を伝わってぴりぴりと届く。暑いわけでもないのに、の背中にじっとりと嫌な汗が浮かぶ。
「立場が分かってないみたいだね、」
冷ややかな氷の視線が影の中から向けられる。
「お前は俺のモノなんだよ。それは嫌だとか何だとかそういう問題じゃない。所有物が勝手に持ち主の側から逃げ出すなんておかしいだろう?」
所有物と言うとても分かりやすい自分の立場に、は乾いた笑みを浮かべた。
きっと神威にとって恋人も愛人も所有物もペットも、みんな同じで区別が無いのだ。
それは必ず自分の側にある。手を伸ばせば届く範囲にある。命じれば従い、自分を裏切らない。たとえ裏切るような素振りをした所で、力任せで服従させられる。自分が捨てない以上、それは決して無くならない。そういう存在。
愛情があるとか無いとか、そういう次元の話ではないのだ。
そんな測り方には意味は無いし、彼の執着を愛情と言う聞こえの良い言葉に変換するならば、それは誠実なまでに一身に注がれている。多少歪んでいるかもしれないが、そもそも形に意味など無い。
「」
再び名を呼ばれる。苛立ちと怒りを混ぜ合わせたような声音に、はわずかに後ずさった。
ここは安全だ。怖くない、怖くない、と自分に言い聞かせ、細められた冷ややかな視線に不適な笑みで対抗する。
「だったら捕まえてみれば? ここまで来れたら、もう逃げないよ?」
両腕を広げてほら、と挑発する。
神威の表情が凶悪に歪んだ。
「生意気だね」
神威の足の先がわずかに境界を越えた。そして一歩、薄暗闇を纏っていた身体が日の下に晒される。
「……っ」
神威はまるでそれが痛みであるかのように、眉をしかめてわずかに声を漏らした。
心の奥から込み上げる恐怖に、頭がどうにかなってしまいそうになる。別に痛いわけでも苦しいわけでもないのに、すぐさまここから逃げ出したいと夜兎の本能が大音声で呼びかける。
もう一歩。
唇を強く噛み締めて、神威は歩を進めた。
「俺から逃げようなんて甘いよ」
凶悪な表情に殺気に似た覇気を瞳に込めて、を睥睨する。
もう一歩。歩を進めるごとに身体中の生気が零れ落ちるような錯覚に陥った。
頭がくらくらして変な脂汗が浮かび上がる。頬の輪郭をなぞって顎先から汗がぽたりと滴り落ちる。
「どこに逃げたって俺は捕まえるし、誰に匿われたって俺は殺す。逃げ場なんてない。生きる場所もない。死ぬ事だって俺は許さない」
生意気だ。苛々する。腹立たしい。
たった一つだけ欲しいと思っただけなのに、そのたった一つはこうして自分を翻弄する。
俺はただ、欲しいだけなのに――――
いっそ足をへし折ってしまおうか。それとも両目をくりぬいてしまおうか。
本当にただの物になって片時も離れず側に置いてしまえたら、この苛立ちは収まるのだろうか。
「チクショウ」
神威は忌々しげに吐き捨てると、両手を開いての身体を抱きしめた。
きつく、背骨をへし折らんほどに力を込めて――――
「ほら、捕まえた」
陽光に晒されていたの身体は、神威の大嫌いな太陽の匂いがした。
「なんだかねェ」
阿伏兎は医務室のベッドに横たわった神威の白い顔を眺めながら、呆れたように溜息を漏らした。阿伏兎に言わせるならバカップルの痴話喧嘩、それにちょっと殴り合いとか血とか物騒なものが混ざったようなものなのだ。
だから、が船を勝手に降りて逃げたと聞いた時にも、放っておきゃあ三日くらいで帰ってくるだろうとタカをくくっていた。もし帰って来なかったなら――――その時はその時でそれが別れだったのだと受け入れるのみだ。
だが、我等が団長様はこう見えて殊更、独占欲が強い。
自分のモノが逃げる事も、勝手に自分の前からいなくなるのも許せない。
途中下車した星をそれこそ根こそぎ壊してしまわんと言うほどに暴れまくり、陽光を浴びるのも構わずを追い詰めて捕まえて来た。
手錠と足枷付けて絶対に逃がすな。今度逃げようとしたら、足へし折っていいから――――と。物騒な命令を阿伏兎に下して自分はそのままぶっ倒れてしまったのである。
「まったく無茶しなさる」
日の光は確かに痛くも苦しくも無い。ホラー映画の化け物のように皮膚が壊死したり、ぼろぼろの灰になる事もない。遺伝子に刻まれた恐怖心だけなのではと錯覚してしまう事もある。
だが、それは色のない毒と一緒だ。確かに夜兎にとってそれは有害な光であり、短時間であろうとそれを浴びれば忽ち健康を損なうのである。
証拠に戦艦に戻ってきた神威は高熱に浮かされて、何日も寝込んでしまった。
これじゃあ仕事にもなりゃしねェ――――
「お前さんのせいだからな」
ベッドの脇の椅子に座ったの頭を軽くこずくと、は憮然とした表情を返した。
その四肢には手枷、足枷。しかも手錠の先はベッドに横たわった、神威の手首に繋がっている。
この手錠はたまたま今日具現化しただけで、実はずっと繋がれっぱなしだったのだと――――当人は今更気づいたのかも知れない。
境界を跨ぐ二人の絆は――――甘やかな愛情と呼ぶよりも、もっと執着に満ちていて俗っぽい感情だが、確かに双方の自由を奪うべくガッチリと繋がっているのである。
「確かにアンタは団長のモンかもしれねェが、団長も少しはアンタのモンだよ。証明されて良かったじゃねェか」
阿伏兎の冗談まじりの言葉に、は複雑そうな表情を返した。
end
ヒロインは本気で逃げるつもりではなくて、
ただ神威の気持ちが如何ほどか確かめてみたかっただけだと思います。
なのでわざと陽だまりの中に立ってみたり。
自分の想像より神威の答えが過激だったので、
照れればいいのかビビればいいのか複雑なヒロインでした。