メモリー・ロスト 01
その病は、いつの頃からか街に蔓延していたように思う。
病、と呼ぶには確たる原因も治療法もはっきりしないが、一部の若者が実しやかに囁くドラッグの効能と決め付けるには、あまりに非現実めいていた。
とはいえ、質の悪い冗談を集団で装ったとも思えない。
そう、この病はこの街にすむ者だけが至る。
病名も治療法も特効薬も何もない病。
ただそれに陥った症状だけが、『ロスト』と名づけられた。
「だからさぁ、しらねぇっつってんだよ。覚えてないの、なーんにも。俺、自分の名前だってしらねぇんだぜ?」
あごひげを蓄えたチーマー風の若者が、へらへらと笑いながら肩をすくませた。
田中トムは大仰にため息をついて、目の前の現実逃避してしまった若者をどうしたものかと見据えた。
「名前知らないっていうなら、俺が教えてやるけどさ、俵目和弘君。君、20万円の未払いがあるわけよ。で、俺たちはその取立て屋。期限とっくに過ぎてるから、さくさく払った方が身のためだと思うけどな」
「はあ? 知るかよそんなの。俺、記憶ソーシツだって言ったべ? 金返せとかいきなり言われたって、わけわかんねぇじゃん」
わけわかんねぇのはこっちだっつの――――
最近、客の中にこの手の馬鹿が増えてきた。『ロスト』というらしいが、何が原因でこうなったのかは知らない。聞くところによれば『他人に為れるドラッグ』とかいうのがあって、その名前がいつしか症状自体の名前として使われるようになったようだ。
所謂、記憶喪失。それを人為的に引き起こすクスリというのがあるらしい。
まったくもって眉唾ものだが、事実この街には記憶障害者が増えている。誰も彼もが己を忘れ、他人に成りすまして知らん顔をしている。
「っち、くだらねぇな」
思わず声に出していた。
要は逃げ出したかっただけなのだろう。そんなもので、過去がすべてチャラになると思っているとは、とんだお笑い種だ。
なめてんじゃねぇぞ、と口に出しそうになってあわててそれを引っ込める。ガキどもに説教を垂れるようになっては、いよいよ自分もオッサンだ。
さて、こいつの記憶喪失が本当にしろ、嘘にしろ、金を出させるには少々骨が折れそうだ。どうするかな、とトムが顎に手を添えて思案していると、
バキッ
不穏な破壊音が、背後に響いた。
「記憶と一緒に借金もチャラってか? いい度胸じゃねぇか、ああ!?」
振り返ればそこには、バーテン服にサングラスという出で立ちの男が道路標識を片手に仁王立ちで立っていた。
「どうせもう消える記憶はねぇんだろ。だったらこいつを頭で受け止めたって、なんの不都合もねぇんだよな。な?」
にぃっと口元を釣り上げ、静雄が標識を振り上げた。
トムは素早く身を翻したが、自称記憶喪失の若者は呆然と立ち尽くしていた。
今なら若者の記憶喪失を信じてやれたかもしれない、とトムは胸中で考える。もし彼に記憶が残っているなら、誰に喧嘩を売ったのか、売ってしまったのか、知らぬはずがないのだ。
「死いいいねええええやああああ!」
風を凪いでフルスイングした標識が、ゴルフの玉のように若者を宙に打ち上げた。
「おー、ホームラン」
トムは片手で目の上にひさしを作り、まぶしい青空に向かって飛来する青年を無感動に見送った。
やはり記憶をなくしたいなどという気持ちはトムにはわからない。記憶をなくせば過去が清算されるわけでもなく、逆に今まで積み上げた生きるうえでの大切な知識まで失ってしまうのだ。
もっとも池袋最強の男、平和島静雄の名は、一度リセットされた若者の頭に新たに要注意人物として記憶されることだろう。
「次は忘れるんじゃねぇぞ」
と、独りごちて、トムは若者が落下したであろう場所へと歩みを進めた。
静雄も幾分怒りが収まったらしく、標識を適当な場所へつき立てトムの後を無言でついてくる。
後はいつもの手順だ。若者は最早逆らおうなどと思わないだろう。後は宥めすかせたり、すごんだりして見せて、さっさと20万を――――
裏路地に落ちたそれを見て、トムはさぁっと顔を青ざめさせた。
先ほど静雄が打ち上げた若者――――は、いいとして、その下にか細い白い足が二本にょっきりと生えている。
若者の体に押しつぶされるようにして、血の気の失せた少女の顔が覗いていた。長い黒髪の隙間から、とくとくと、まるで花瓶の水が倒れてこぼれるように、赤い鮮血がアスファルトに広がっていく……
「うっわ……やべ」
即座に事の事態を把握したトムは、小さく漏らした。
一方、そこまで理解が達さないのか、不可解なものを見るように目を日張っている静雄。ようやく少女がぴくりとも動かない事が何を示すのか理解し、静雄が呆けた顔をトムに向けた。
「トムさ……俺、」
「や、待て待て! ストップ! まだそう判断を下すには不十分だ! 落ち着けっ、いいから落ち着けっ!! こういう時はあれだな、まず救急車だ! 救急車の番号はたしか〜」
「いや、トムさん、これ…」
携帯電話を片手に混乱を極めていたトムを、静雄が制する。
少女の体の側に転がっていた黒い塊を見せ付けると、トムは無言で携帯電話をスラックスのポケットにしまいこんだ。
静雄が拾い上げたそれは、漆黒の拳銃だった。
end
色々前置きが多くて申し訳ない。
やっとヒロインと邂逅を果たしたところで、次回に続きます。